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もう10年ほど前になるけれど、ある美術館で不思議な体験をしたことがある。
小さなその美術館は個人のもちもので、生前収集したお茶の道具や日本画が展示されていた。建物の外観はヨーロッパの古城風だが、茶室や日本風の庭園もあって、落ち着いた雰囲気だ。平日の午後ということもあって、お客は僕とつれの女の子しかいなかった。 展示室をひとつひとつとまわっているうちに、どこからかピアノの音が聞こえてくるのに気がついた。 完成された曲ではなく、断片とでもいおうか。いや、断片ですらない、ひとつか、多くても二つの音が、「ポーン、ポーン」と聞こえてくる。とても小さな音で、耳をじっと澄ませていないと聞こえないくらいだ。一度なると、静寂が続き、忘れかけたころにまた鳴る。音の高さや長さも微妙に違うような気がする。気がする、というのはそれだけ、前の音の記憶を保持できないほどに長いから、断言することができないのだ。 最初は近所の誰かがピアノをいたずらしていて、その音が建物の外から聞こえてくるのだろうと思っていたが、どうもそうではない。音は建物の内部で発せられている。 スピーカーがあるんじゃないかと壁や天井を探したが、それらしきものは見当たらない。つれの女の子に、「ねえ、ピアノの音が聞こえるよね」と尋ねたが、彼女はいぶかしげな顔をするだけだ。立ち止まって耳を澄ませるように彼女に頼んだが、そういうときにかぎってなぜか鳴らない。 そしてふたたび歩きだすとまた唐突に、ピアノの音が聞こえるのだ。 ひとつ、 ひとつ、 と。 しかも、音の大きさは一定なのだ。大きくなりもしないし、小さくなりもしない。鍵盤のタッチも一定だ。 やがて音は止んでしまった。小さな光が薄闇の中に消えてしまったように。 どれだけ待っても次の音は現れなかった。受付で確認しようとしたが、女の子が反対したのでやめた。たぶん、頭がおかしいやつといっしょにいると思われるのがいやだったんだろう(その子とは直後に別れた)。納得できないままに僕は美術館を出た。 いったいあの音はなんだったんだろう? 空耳か? 幻聴か? いや、そうじゃない。二日酔いでもなかったし、神秘的な体験も縁がない。寝ぼけていたわけでもない。 いや、注目したいのはあの音の原因ではない。僕の頭のネジが一時的に緩んでいたのか、建物の外から聞こえてきたのか、もしくは学芸員のいたずらなのか、それはどうでもよい。 僕は美術館の展示室を移動した。ある展示室からある展示室へ。通路を歩き、階段を昇り降りした。しかるべき空間の移動があり、しかるべき時間の推移があったはずだ。 しかし、次の音が聞こえた瞬間に、僕は前の音が鳴り終わった瞬間に感覚的に(そう、あくまでも感覚的にだ)引き戻される。前の音との連なりについて必死に考える。どうしても考えてしまう。 考えながらも、時間は経過する。 あのとき、僕は実際の時間と、引き伸ばされた瞬間の時間の、2つの時間の中にいたような気がする。 現実の時間と、音楽の時間? キーワードは「静寂」と「移動」だ。 美術館ではなく、騒がしい街中だったら僕はその音に気づかなっただろうし、たとえひとつの音を認識したとしても、次の音はわからなかったと思う。静寂だったからこそ、かすかな存在に気づいたのだ。 もうひとつ、移動。 僕が移動しないで座っていたとしたらどうか? また違った印象を受けていただろう。音と音とのあいだの時間を「間」としてとらえていただろう。つまり、音楽として聞いていただろう。もちろん、それはそれで異様な体験ではあるのだが、ジェイムズ・テニーやモートン・フェルドマンのようなアメリカの現代音楽の作曲家の作品には、水墨画のように極端に音数の少ないものがある(それはそれで実に美しい)。 じっさい、最初は前衛的な仕掛けが美術館に施されているのではないかと疑った。ブライアン・イーノの初期のアンビエント作品のように。しかし、茶道具と日本画を展示し、定期的に茶会を開催するような反前衛的、オーソドックスな美術館がそんな仕掛けをするだろうか? ありえない。 通常、音楽を聴くときは身体は移動しない。停止している。 音楽はそれを聴く者が移動しないという前提で作られている。少なくとも移動を前提として作曲はされていない。フランスのアーバン・サックス(懐かしいね)のように、楽隊が移動しながら演奏する場合、聴く者もあわせて移動する必要があるが、それは音源が移動するからだ。 ダンスミュージックの場合も同じだ。聴く者は踊ったり、フロアを動いたりもするが、演奏される音楽の本質とは無関係だ。踊らずにじっと聴いていてもかまわない。それでいて音楽の中身が変わるわけではない。解釈の方法が変わるだけだ。 音楽は停止を前提としている。 聴く者の移動を前提にした音楽は可能なのだろうか? それはむしろ、音楽ではなく、美術の行為なのだろうか?
by 42_195km
| 2008-11-23 11:38
| 音楽三昧
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