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しつこく石山修武。まだ続くのか? えー、もうそろそろ終わるはずです。あとこれもいれて2冊かな。
1994年出版。バブルが崩壊してぼろぼろのころですね、日本。宮城県は気仙沼市で市民といっしょにさまざまな奇想天外な企画を作り続ける石山。気仙沼だけじゃなくて、松崎や淡路島、カタロニア、カトマンドゥ、ロンドンなどなど。 いくつかの町から教えられて、自分は以前程には建物やら、実在する場所っていうモノの価値を信じなくなってきた。建物を建てなくてはならない建築家としては、大変に困ったものだなあとあきれている。町と付き合いながらひとつだけ理解し始めていることがある。自分でできることは気持ちの中に建築を建てることなんだなって。幻想や夢の中に建築を建てることではない。みんなの記憶の中に直接建築を建てることだ。記憶そのモノ、知覚そのモノを直接的にデザインしてしまうとすることだ。文化っていうのはどうやら集団としての記憶の集積のことらしい。それならば建築だって、イヤイヤむしろ建築こそはその集団としての記憶の集積の棲家になってしかるべきなのではないか。 石山の本を読んでいると、一般的な意味での建築家という仕事に対して、非常に冷めた目というか、批判的な言葉がぽんぽんと出てくる。でも、建築家をやめるわけではない。彼の素晴らしいところは、そうやって一回一回、「建築ってなんだろうね?」っていう問いかけを、ポーズじゃなくて真剣に行っている(であろう)ことです。 これって真の芸術家の姿勢ですよ。そう思いませんか? さて、この本でも石山は「物語」という言葉にこだわる。「はじめに」は「物語の始まりを待とう」で始まり、あとがきは「物語はこれからだ」で終わる。上の言葉を引くならば、「記憶の中に直接建築を建てる」には、その場所固有の物語が必要であると考えているんだろと思う。その物語、たとえば建築家個人だったり、行政の首長だったりが適当に思い込みで作ったものではだめなんだろうな。そこに住む人たちの、集団の物語じゃなければ、愛されないだろうし、心に残らない。むしろ、邪魔になる。ときには憎まれたりもする。 もちろん、すべての人に愛されるものっていうのはありえない。でも、愛してくれる人が多ければ多いほどいいだろう。そういうものを作ることをめざして、奮闘する建築家もいるということ。 たとえば安藤忠雄が書いた本を読むと、建築そのものの様式やら技術やらについて、もしくはその建築が建てられる場所の現在や歴史について、滔々と語っている。でも、そこに住んでいる人たちの、なんていうかな、生々しい息遣いとか、身振りとか手振りとか、そういうのって、感じられない。まったく。ものすごく無表情ですよね。「えー、大阪の文化があ」とかって言ってるけど、出てくる建築に「大阪」っぽさはまるでなかったりする。これってどうなんでしょうね。安藤もまちづくりとか、地域とかっていろいろ語ってますけどさ。 ふと思った。安藤忠雄って、篠山紀信に似ている。篠山の写真もものすごく冷たい。匂いがまったくしないです。っていうと、石山はやはり荒木か? まあ、古臭いたとえですが。 話を石山に戻す。 これは石山の他の本で書かれていたエピソードなんですけど、CMなんかの「空」を描く職人の物語があります。 そう、ビールとかのCMでばーっと青い空がバックに広がって…ってのでがあるでしょう? ちょうどいい具合に雲があったりしてね。まさに完璧な青空。 あの空って、絵だそうです。 絵。 そう、手書きの絵。CGとかじゃなくて。で、空の絵ばかり描く職人がいるそうです。東京に。石山は彼と親しく、インタビューもしてます(詳しくは「現代の職人」を読んでください)。で、あるときその彼に、一通の手紙が来た。関西からです。どうも彼と同じような空の絵を描く職人が、関西にも一人いるらしい。 で、その手紙には一枚の写真が入っている。どこかの島だかの空を写した写真。もちろん、それは本当の空ではなくて、絵なんですね。関西の職人の作品。 「ここがどこか、わかりますか?」って書いていある。 で、東京の空の絵描きは、その絵が置かれている場所を探して旅に出るって話。 最後には見事に、探し当てる。 手元にないんで、細かいところで間違っているかもしれませんが、だいたいこんな感じ。 これは読んでて本当にスリリングで、ロマンティックでした。これで1本映画撮れますよ(笑) 石山の文章は決して上手じゃないです。もちろん、小説書きの文章じゃない。そのへんのおっさんがぶつぶつとしゃべっている感じ。本人も美文を書こうとかって気持ちはあまりないでしょう(「アニミズム紀行」ではかなり気合が入ってますけど)。 でも、物語として、しみいってくる。心に残ります。記憶に残る。 この、「記憶に残る」ってのが大事なんでしょうね。記憶に残るから、その記憶が次の何かへと受け継がれていく。原料になり、反省の材料ともなる。新たな創造・想像を生み出す。 われわれ人間は物語がないと生きられない…というと大げさか。物語がなくても生きてはいける。でも、物語を読む、聞くとはなんでしょう? それは、「自分より大きな価値の流れに身を置くこと」だと思います。 それは他者の存在を感じることであり、歴史を味わうことであり、未来を思うこと。 物語というツールは、それを成すために非常に有効な手段のひとつであると。 そして、物語というのは、決して小説という文学形式のみに与えられた特権ではない。それを表現する方法がたまたま小説という方法によく親和したに過ぎず、石山のように建築にこめたっていい。音楽にこめたっていいし、何にこめたっていい。そうじゃないかなと、思います。 すべての表現が物語を前提にしなければならないというつもりは一ミリもありません。ヌーヴォー・ロマンにはまっていた時期がある人間として、それは言えない(笑)。 というか、物語がなくても、成立する小説というのはあります。物語にこだわることが、小説という表現の可能性を委縮させてしまっているのではないか?という立場もあって、保坂和志はおそらくこういう見方をしていると思う。物語を否定しているわけじゃないけどね。たとえば、松井のホームランに感動するためには、野球という物語というか、何度も何度も野球場に通い続けるということがあって、はじめて成立することであって、そこだけ取り出して、たとえばyou tubeかなんかで見ても、ぜんぜん違うわけです。 ここでTIME誌上に掲載された村上春樹へのインタビュー(というか質問)から引用しましょう。 「どうしてあなたはそんなにもマジカルな要素をもった物語を語るのですか?」という質問に答えて。 私は物語の呪術性と力が、人々に勇気を与え、魅了すると信じています。 古代において、洞窟の外は闇でした。しかし、洞窟の内側では焚火があって、物語ることの得意な人がいました。 書くときにはいつも、私はこの洞窟のことを考えます。われわれはひとつの集団で、外は闇で、狼たちが吠えています。でも、私には語るべき物語があるのです。 村上春樹が、古代の例を引き合いに出していることに注目します。小説が成立するよりも、もっともっともっともっともっと古い時代の話です。物語はそのころからあった。そうですよね、たとえば神話。 当たり前といえば、当たり前の話です。 書いていて自分がアホに思えてくるくらいだ。しょうがないですね。しかし、「小説」だの「文学」だのというフレームにこだわっていると、どうしても思考が近代的になってしまう。もっといえば、20世紀的になってしまう。村上は「記号論的世間話」といいましたが、まさにそれになってしまう。で、僕もそうしてきたような気がします。 もちろん、それはそれで価値のあることでした。エクリチュールだの、アンチロマンだのそのほかもろもろ。 しかし、その行為は小説なり文学なりというジャンルに資するものであって(それも、美術からの借用という形で行われた実はとても曖昧なものであった)、また、近代の社会なり国家なりと表現ということを考えるには有効だった。 小説は近代からある。しかし、物語は古代からある。 ようやくここに至ったか、俺(笑)
by 42_195km
| 2009-05-06 12:55
| 本三昧
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